http://tsigeto.info/2021/occ/o210419.html
田中重人 (東北大学文学部准教授)
2021-04-19
とりあえず、ことばを分解して、辞書を引いてみると
というような語義説明になっています (いずれも『広辞苑』第5版電子版)。「使用者」は法律用語です。労働者を雇っている企業のことだと思ってください (授業では「法と政策」の回で説明します)。「雇用契約」は「労働契約」ともいいますが、労働について企業と労働者の間で結ぶ契約のことです。「法理」は法に関して通用している理屈といった意味で、必ずしも法律の条文に書いているわけではないが、法律の解釈や適用の際にふつう使われている理屈を指します。これらの知識を結合すると、企業は労働者との労働契約を解除する権利 (=解雇権) を持つが、それをみだりに (=不適切に、社会秩序を乱すようなやりかたで) 使うことを禁止する法律上の理屈があるんだな、というくらいのところまでは見当がつくでしょう。
現在では、これは労働契約法 (2007年法律第128号) 第16条に書いてあります。
2003年に労働基準法を改正したときに、これとおなじ条文が第18条の2 (当時) に入っていました。それを2007年の法改正で労働契約法16条に移したのが、現在の形です。
法律にはこれだけしか書いてありません。「客観的に合理的な理由」とは何か、「社会通念上相当であると認められない」のはどのような場合か、などの具体的な規定は法律中にはなく、実際の裁判等の運用にゆだねる形になっています。
このような法理は、1950年代以降の労働関係の裁判のなかで次第に形成されてきたものでした。企業に解雇された労働者が、それを無効だとして訴えを起こす裁判がたくさんあり、そのなかで、解雇が有効だとするには「合理的な理由」があって、「社会通念上相当であると認められる」程度の必要性がないといけない、という判断基準が固まっていきます。当時の法律には解雇を一般的に制限する規定はありませんでした。特殊な条件下での解雇を禁止する規定はいくつかありましたが、それらの制限に引っかからない限りは、企業は自由に労働者を解雇していいことになっていました。しかし、多くの裁判の中で、実は解雇は自由におこなっていいわけではないのだ、という理屈がつくられていくことになります。 1970年代半ばまでには、だいたいどういう条件がそろえば有効な解雇として認めてよいかという基準ができて、裁判官はその基準を使って判断する、という状態になっていました (具体的な内容については、授業の「法と政策」のところで解説します)。
このような、裁判を通じて形成されてきた基準のことを「判例法」(case law) といいます。国会で法律をつくったり改正したわけではないので、法律の条文はなにも変わっていないのですが、にもかかわらず、裁判所が実際の法律を適用して判決を下すときに使う基準が変われば、実質的には法律が変わったのとおなじような効果が出るわけです。
なお、広い意味で「解雇規制」という場合には、解雇権濫用法理以外に、上で述べた特殊な条件下 (たとえば産前産後休暇中や業務上の負傷・疾病の療養中) の解雇の禁止 (労働基準法19条など) もふくむことがあります。
「市場」(いちば) というのは、商品の売り買いがおこなわれる、具体的な場所 (常設または定期的) を指します。商店街のようなところをイメージするとよいでしょう。そこには商店がたくさんあり、店頭に品物と値札を出して売っています。買い物に来る人もたくさんいて、あちこちの商店の品物をみて、気に入ったものを買っていきます。
商店はたくさんあるので、同じ品物が複数の商店で売られていることがあります。もし、まったくおなじ品物なのにちがう価格がついているとすると、わざわざ高いほうを買う人はあまりいないでしょう。安い店の品物ばかりが売れて、高いほうは売れないことになってしまいます。そこで、最初は高い価格をつけていた店でも、価格を下げていきます。最終的には、どこの店でもおなじような価格でおなじ品物が買える状態に落ち着きます。
市場のなかで買い手が自由にあちこちの商店から品物を買う場合、このように供給 (売り手側) と需要 (買い手側) の間での調整が価格を通じておこなわれ、おなじ品物であればおなじ価格で売買されるようになります。そのような状態を「一物一価」と表現します。
いっぽう、市場がひとつではなくて複数あり、それらの間を移動する障壁がある場合には、このような調整はかならずしもはたらきません。はなれた場所に商店街があって、その間を行き来するのがすごく大変だったりすると、買い手が両方の商店街を見て回るということはあまり起きません。このような場合には一物一価にはならず、おなじ品物でも、こちらの商店街とあちらの商店街ではちがう価格で売っている、というような状態が続く場合があります。
このような地理的な分離でなくても、色々な理由で、おなじ品物がおなじ価格に収束するような調整がおこなわれないことがあります。たとえば、個人経営の飲食店などでは、頻繁に通って「常連」になると安くしてもらえたり、量を増やしてもらえたり、ということがありますよね。ポイントやスタンプカードを発行していて、買い物の回数が増えると商品が安く買えるような仕組みを持っている店も多いですし、航空会社などでは利用のたびに「マイレージ」というものを発行して、それを貯めていくといろいろ特別な扱いが受けられるようになっていたりします。このような場合、顧客によって店の側でちがうあつかいをしているので、常連の客と初めての客とは、ちがう「市場」で取引しているのだ、と考えることができます。
このような考えかたを抽象化して、具体的な場所に商店があつまっているような場合でなくても、価格を通じた供給と需要の調整がおこなわれるような仕組みがある場合を、経済学では「市場」と呼びます (この意味では「しじょう」と発音します)。商品の売り手と買い手が自由に相手を選んで取引をおこなっているなら、上記のような価格を通じた調整が働きます。
さて、「労働」というのも商品の一種と考えることにしよう、というのが経済学の考えかたです。労働者が企業と契約を結んで、平日の朝9時から夕方5時まで、自動車の修理をする仕事を提供します、そのかわり企業は1時間あたりxxx円賃金を支払います、というようなことを、労働者は「労働」を売り、企業はそれを買っているのだ、と考えるわけです。賃金というのは、その労働の価格にあたります。労働の売り手 (労働者) と買い手 (企業) が労働を取引する (そして賃金 (=価格) を通じた調整がはたらく) 市場があるのだと考えて、それを「労働市場」(labor market) と呼びます。
労働市場においては、いちど労働契約が成立すると、それがかなり長い期間、同じ企業と労働者の間で維持されるということが広く見られます。日雇いの仕事というのもあって、その場合、1回の労働契約は1日しかないわけですが、実際には、次の日もその次の日も、同じ企業で同じ内容の労働契約を結んで働きつづける、というような事例がすごく多いわけです。上でみたように、「常連」客ができるという現象はいろんな品物をあつかう市場でみられるものですが、労働市場においては、その傾向が特に顕著なのです。 (なぜそうなるのかという話は、授業では「労働市場」の回でとりあげます。)
このような、すでにその企業に雇われている (=企業内部にいる) 労働者がずっとおなじ企業に雇われつづける場合、そのような労働者 (たち)と企業との間で調整をおこなう市場のことを「内部労働市場」(internal labor market) と呼びます。これに対して、その企業に雇われているわけではない (=企業外部からやってきた) 労働者 (たち) と企業との間での調整をおこなう市場のことを「外部労働市場」(external labor market) と呼びます。
「資本」(capital) というのも経済学用語で、商品を生産するのに使う機械や設備などのことを指します。企業は投資 (investment) をおこなって機械や設備などをつくったり買ったりして、それを使って生産をおこない、できた商品を売って利益をあげます。このとき、性能のいい機械をそろえると、品質のいい商品をたくさんつくれるので、より高く、より多く商品を売れることになります。企業がどのように投資して、どのような資本を形成しているかは、経済学の重要な研究対象です。
この概念を拡張して、労働者の能力も「資本」みたいなものと考えて「人的資本」(human capital) と呼び、経済学の理論のなかに組み込もうとする発想が、20世紀になって出てきます。教育や訓練などによって人間の能力を伸ばすのは、あたらしい機械を買ったり工場を建てたりするのと同様の「投資」であり、投資によって高い能力を得られれば、より品質のいい商品をたくさんつくれるようになるので、より高い価格で労働を売ることができる、と考えるわけです。
労働者がどのような人的資本を形成していくか、また企業がどのような人的資本をもった労働者を期待しているか、といったことは、労働市場の性質を考えるうえで重要なポイントになります。
White collar は直訳すると「白い襟」です。これは要するに、男性がスーツの下に着る白いシャツのことです。近代資本主義社会で工場生産がはじまった当初は、労働者といえば工場で機械・器具をつかって作業する人のことでした。しかし、だんだんと近代化が進展して巨大な企業が出現するようになると、企業を運営するための事務仕事や管理職にあたる人が増えてきます。そうした新しいタイプの労働者は、自分の体を使って仕事をするのではなく、頭脳を使って計算をしたり企画を立てたり、部下を監督したりします。また、企業のなかで高い役職をあたえられて、労働者というよりは企業側の代理人としての性格を持ち、また賃金も高かったりするので、権力と経済力を持つ新しい「中間階級」(middle class) とみなされるようになりました。白いシャツにネクタイを締め、スーツを着て仕事していたので、その特徴をとらえて「ホワイトカラー」(white-collar) と呼ばれます。
これに対して、自分の体をうごかして作業する労働者は、青い作業着を着ていることが多かったので、white との対比で bule-collar と呼ばれるようになります。 (このあたりの話は、授業では「不平等と労働」(社会階層) の回でとりあげます)
役割 (role) は社会学用語ですが、もともとは演劇の用語です。役者が自分に割り当てられた役にしたがって演技するのと同様に、人々が自分に割り当てられた「地位」(status) にしたがって、その地位に期待されるような行動をとることをいいます。
私たちは、社会のなかでいろいろな地位を割り当てられて生活しているので、それにしたがって適切な役割を演じることになります。性別というのも地位の一種で、女性に対して期待される役割と男性に対して期待される役割はちがいます。そのような役割のちがい (=性別役割) によって担当する事柄が異なっていることを「性別役割分業」といいます。
「分業」(division of labor) とは、最初から最後までひとりの職人がやっていたような仕事の全体をこまかく分割して、個々の工程 (process) に専任の担当者をつけることをいいます。これは本来は工場などの工程についていうのですが、社会全体についてみた場合にも、やらなければならないことの種類に応じて担当する人がちがっているという現象はよく起きるので、それを指して「社会的分業」というようないいかたをします。
「性別役割分業」という場合、男性と女性とで担当が違っていればなんでも該当するのですが、家事は女性の役割ということになっているという点が特に研究の焦点になってきたため、賃金の支払われる仕事 (paid work) に男性がついて、そうではない「無償労働」(unpaid work) に女性がつくという形の分業を特に指して使われることが多いです。
書いてもらったことについては、授業中にできるだけ盛り込めるように考慮しますが、ちょっとむずかしいことも多いです。特定の職種 (教員、公務員、農業など) についての希望もありましたが、それぞれ固有の条件があり、また法律・政策上の特殊な位置づけの差異をちゃんと整理しないといけないので……
いわゆる「非正規」労働の問題、労働法を守らない企業の問題、若者のキャリアの不安定性、学歴や性別によるちがいなどについては、授業中にとりあげる予定です。
通信環境の不安についての声もいくつかありました。なるべくリアルタイムでの接続なしについてこられるような形での授業にしていきますが、もしなにか問題があったときには、お知らせください。
なお、川内南キャンパスでは、
が学生利用に開放されています。
金曜正午までに Google Classroom に提出。
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