しかし、扶養される者の生存権という立場からみれば、扶養の責任が親族にあるのか国家にあるのかは二次的問題であって、社会的に真任を負担する者の内部分担にすぎない。親族的扶養責任に関する伝統的二元論は、むしろ現代法の下では生存権保障の原理によって私法上の義務負担としてのみでなく、公的扶養制度の原理と併せて統一的な一元論として認識を新たにせねばならない。そしてまた、私的扶養を国家責任による公的扶助によって如何に支えるか、それは国家の家族政策にとってきわめて重要な要【カナメ】といい得るであろう。
〔……〕 家族は現実社会で生産単位、消費生活単位、共同生活単位としての三側面をもっている。 〔……〕
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渡辺教授は、さらに資本主義家族法の変化の法則についての理論仮説を設定する。家族のもつ右の三つの側面は、資本主義家族法の出発点たる近代市民家族法においては分離せず三位一体であった。家族秩序は生産秩序によって規定される。すなわち、小市民的家族秩序の基本的法構造は、第一に、生産手段の所有・管理・使用収益とその承継をめぐる法秩序の形成によって、第二に、家族生産労働の分配および収益の分配のあり方をめぐる法秩序の形成によって規定されている。したがって、家族の消費共同体や扶養共同体としての側面は、分離独立した関係とはならなかった。しかし、原蓄過程がこの小市民的家族経営を解体させて、ブルジョア的家族と大量の労働者家族をつくりだしたとき、生産秩序とむすびついていた家族は、次第に生産から分離し、家族経営の崩壊によって、裸の個人として商品交換社会へ放り出された。近代市民家族は、生産単位としての家族から消費生活単位としての家族へと変化してゆく。この段階では、妻や子は生産労働から離脱し、夫または父親の賃金に依存する。夫または父親のみの労働に対する対価として支払われる賃金は、その労働力の再生産が家族の場で成立する以上、妻子の生活保障が含まれ、夫は妻子の扶養の義務を当然に負わねばならない。生活保持と生活扶助の二元論は、自由主義段階の労働者家族に適合し、その限りにおいて説得力をもっていた。しかし今や、国家独占資本主義段階の家族は、強大な国家による保護政策がなされない限り社会的に自然崩壊の一途をたどる。親族的扶養を私法の枠組のなかで二元的に構成してみても生存権の保障は解決されない。むしろ国家による生存権保障の責任を親族の内部と国家的負担とで分担し合う政策を国家財政の面から把えなおさなければならないであろう。
(p. 82)
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p. 81, 82
黒木 三郎 (1981) "現代家族法批判: 市民的家族法の限界をめぐって"
{1981:BN00445658} ed.=有地 亨 + 江守 五夫 + etal. 家族の法と歴史: 青山道夫博士追悼論集. 法律文化社.
75-94
Created: 2014-09-21. Updated: 2014-09-21.
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