2「正義」の社会学的意味
2-1 理念とルールについて
いままでの議論では,「正義」をあえて限定せずに用いてきた.ここで用語の整理をしておこう.正義という言葉は,広義には「正しさ」一般を指し,狭義には「何が正しいのか」を指す.前者はアリストテレスのいう全般的正義に近い概念である.広義の正義は,いわば「正しさ」という観念そのものであり,「何が正しいか」についての特定−−正義の内包−−を伴わない.狭義の正義がこの内包にあたる.本章では,逐一「広義の」「狭義の」と断るかわりに,広義の正義を単に「正義」,狭義の正義を「正義理念」と呼ぶことにしよう.例えば,「人類の平等」は正義理念のひとつである.正義理念については,さらにそのルールとの関係を明確にする必要がある.
つかみどころのない正しさ一般が,正義理念の形で結晶化しても,理念をそのまま現実に適用することはできない.例えば平等が正義の内包であると確信したとしても,どのような状態が「平等」なのかが特定されねばならない.よく用いられるのは「機会の平等」ないし「結果の平等」である.仮に「機会の平等が達成されたとき人類は平等」と考えたとしよう.すると次に,機会の平等を保障するルールが書かれねばならない.これを教育機会の平等で保障することにしたとする.では教育機会の平等は,すべての学校の門戸を条件を問わず開き入学試験を厳正に行えば保障されるのだろうか.マジョリティとマイノリティでは教師の期待の高さが異なり,またマスメディアを通してマジョリティをリーダー,マイノリティをアシスタントに配置したイメージが流布されているとしよう.教師の期待やマスメディアの発信するメッセージが子供のアスピレーションに影響することが経験的に知られている時,門戸を開き入学試験を「公平に」行いさえすれば機会の平等は保障されるのだろうか?
これが,差別解消(実質的な機会の平等の保障)のために「クオータ制」2) の導入がしばしば叫ばれる理由である.「人類の平等」→「機会の平等」→「教育機会の平等」と,同一のルール選択を重ねてさえ次の段階のクオータ制導入か否かという決定によって,実現される社会状態は異なる.これ以降も,行為を直接制御する最末端のルールに到達するまで上位のルールを下位のルールで書き換えるたびに,同様な岐路に出くわすことになる.
正義理念から出発して最末端のルールに至るまでの選択を,それぞれの「岐路」で切り捨てられた選択肢も含めて見渡すと,理念とルールは全体として樹状構造をなす.我々の日常生活を直接制御しているのは,むろん樹状構造の最末端ルールである.ただし,ルールが「我々が正義と呼ぶところのもの(正義理念)」を実現するためにつくられたものとされる限りは,それ
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斎藤 友里子 "ジャスティスの社会学" {1998:4130551019#Chapter_5} 『講座社会学 1: 理論と方法』東京大学出版会
Created: 2007-12-16. Updated: 2007-12-16.
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