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渡辺 洋三 (1975) 現代家族法理論

ed.= 福島 正夫. 家族 政策と法 1: 総論. 東京大学出版会. III (187-215)

Quotation


中川説において生活保持義務は、親子関係・夫婦間係を構成する「核心的事実」であり、それらの身分関係の「本質的不可欠的要素」をなしている。「親子や夫婦は、この意味において、扶養するが故に親子であり、夫婦でありうるわけであって、養わない親、養わない夫婦というものは、吹かない風とか、流れない川とかいうように、観念的矛盾である」(17) という表現は、中川説の考え方を最も端的に示すものであろう。しかし、親子・夫婦という身分関係が、どうして扶養という財産関係に必然的にむすびつかなければならないかという疑問に対して中川説は論理的に答えることができない。たとえば、ごく明瞭な例を出せば、貧困で、公的扶助を受けている家族ほ、明らかに「養わない親」「養わない夫婦」であるが、この家族の中に、近代的な親子や夫婦の関係があることを中川教授も否定するわけではあるまい。

また逆に、経済的余裕は十分にあり、夫は妻や子を十分すぎるくらい養っているが、夫婦・親子とは名ばかりで、もっぱらそのような経済的利益のみでむすびついて、その他の関係は「あかの他人」と同じように人間関係が本質的には破綻しているという家族も少なくない。このような家族を、中川教授は「養う親」「養う夫婦」であるから、「流れる川」であるというわけでもあるまい。扶養を身分関係の「本質的不可欠的要素」と規定するならば、扶養がなければそのような身分関係も解体し、逆に扶養があればそのような身分関係の本質的要素が維持されるということにならざるをえないが、右にのべた例でも明らかなごとく、――もし「本質的」という言葉を使うならば――扶養関係の存否は、夫婦・親子という身分関係の「本質」には全く関係がない。扶養は、ことがらの性質からいって、すぐれて人間の物質的利益にかかわる経済的財産的関係なのであって、そのような経済的契機を、夫婦・親子のような最も精神的人間関係の本質的要素と考えることは、人間関係を商品関係に置き代える資本主義的経済制度の下における人間疎外のブルジョア・イデオロギーの反映にはかならない。家族関係を、このような物的利害関係としての扶養関係から解放することこそ、究極の人間解放をめざす家族法学の課題でなければならない。

すでに多くの人が指摘し、かつ中川教授自らが認められているように、生活保持義務と生活扶助義務との区別は、戦前の家族制度の下では、夫婦・親子(未成熟の子)の関係以外の家族・親族関係の扶養の範囲を限定するという役割をもっていたかぎりにおいて、家族を扶養関係から解放するという人間解放の法律学理論でありえた。しかし、その区別が、家族制度の解体のあと、夫婦・親子の関係を扶養関係から解放する方向に向わないで、逆に、その扶養関係を固定化し、合理化するための理論として機能するならば、その役割は、資本主義下のブルジョア・イデオロギーとしての限界を示すものとならざるをえない。なぜならば、前の論文で指摘したごとく、家族(夫婦・親と未成熟子)に生活保持義務を課しているのは、資本主義下の貸金法則の要請からくるのであり、まさにこの資本の法則を前提として、家族と扶養とは本質的にむすびついているからである。

(p. 196-197)

社会保障法の展開により、生活困窮者の生存の保障が、ますます家族の責任から社会(国家)の責任に移ることは周知のとおりであるが、このことは、保持義務と扶助義務の区別を相対的に小さいものとする。個別資本の賃金法則を前提として保持義務と扶助義務とを区別するという古典的なブルジョア法イデオロギーは、その前提条件の変化と共に、この区別を相対化する新しい理論にとって代わられることになる。これが、中川説に対する批判が提起されるに至った社会的背景である。保持義務と扶助義務との区別は、【扶養する側の責任】という観点からみた区別である。未成熟子や配偶者を扶養する責任はあるが、成熟した子や親や兄弟の面倒までもみる責任はあるまい、同じく扶養と称しても、この両者の問には、扶養義務者の義務の程度(責任の程度)に差があっていいはずであるという考え方が、その根底にある。

(p.200)

しかし、扶養義務者の側の責任の程度という観点をはなれて、扶養される者の生存権の保障という新しい観点からみるならば、だれの責任で生存権の保障が実現されるかは、第一義的に重要なことではない。その権利の保障ということ自体(生存ということそれ自体)が重要であって、責任が扶養義務者にあるか、国家にあるか、その他にあるかは、責任を負う者の内部的分担にすぎない。そして、個人の生存の必要性という観点からみれば、たとえば三歳の未成熟子であろうと、四〇歳の病身の夫であろうと、七〇歳の寝たきり老人であろうと、その必要の程度(中川教授の言葉を借りれば【強さ】)は全く同一であり、前者の方が必要の程度(強さ)が大きく、後者の方が小さいから、これを区別するということにならないのは自明である。かくて、要扶養者(生活不可能者)の生存の必要と生存権の保障という観点から統一的に眺めるならば、伝統的な二元論は成り立たなくなるのは当然であり、これに代って一元論が登場するのも不可避である。

個別資本の賃金法則の下における扶養義務者の責任論に根拠を置く保持義務と扶助義務との二元論と、被扶養者の生存権論に根拠を置く一元論との矛盾は、たとえば稲子氏が詳細に指摘したように、生存権論に基礎を置くはずの公的扶助行政の中に、古典的二元論を持ちこむことから生ずる混乱の中に典型的にあらわれている (21)。また、この場合ほど顕著でないにせよ、私的扶養が争われる裁判(審判・調停を含む)においても、生存権イデオロギーが登場している現代国家においては、多かれ少なかれ、一元論的処理が要請されているのである。かつて、家族制度的イデオロギーの反映として存在した一元論は、ブルジョア的イデオロギーとしての近代市民家族法の下における二元論にとって代わられ、その二元論は、さらに現代国家の下での生存権理念(特殊法原理)に媒介された【新しい】一元論にとって代わられる――これが家族扶養理論の歴史的流れである。

もちろん、現代社会においても資本の賃金法則そのものが廃止されるわけでなく、それはなお貫徹しているのであり、したがって、労働力再生産のための妻子の扶養が賃金部分の中に含まれていることに変わりはない。その意味で、賃金法則の下での扶養義務者の責任が完全に免除されるということはありえず、私的扶養は、私的商品交換関係が社会の基底を支えているかぎり、現代扶養制度の基底を支えている。しかし、各種の国家政策によって媒介された賃金法則の下で、扶養義務者自体の最低生活保障に対する国家的責任が問題となっているのであり、私的扶養そのものが国家政策によって代位補完されている。それゆえ、私的扶養が破綻した場合に国家が介入するのではなく、私的扶養が破綻しないように国家が介入するという形をとらざるをえない。言いかえれば、私的扶養が扶養制度の基礎であるということは、決して私的扶養が当然に公的扶助その他の国家的責任に優先するということを意味しない。それどころか、私的扶養が扶養制度の基礎であるからこそ、各種の国家政策や国家の介入によって、これを支えなければならないのである。

かくて、現代国家において、生活扶助と生活保持との関係よりは、私的扶養と国家政策との関係の方が、第一義的に重要な問題となっている。しかも、それは、生活保持の中に入れられている夫婦および未成熟子と親との間の扶養について主として問題となっているのである。またこの場合の国家政策は、単に狭義の社会保障政策のみならず、国民生活の場におけるさまざまの国家政策を含んでいる。たとえば医療政策の展開は、扶養にとって決定的である。経済的にも、また看護の上からも、病人の世話や面倒は、私的扶養の最も重要な内容となっているのであるから、医療政策の在り方によって、私的扶養の負担は決定的に異なる。同様に、住宅政策・土地政策の展開は、私的扶養にとってこれまた決定的意味をもっている。子の養育費用よりは家賃の方が高く、自分自身の住宅を持とうとおもえば一坪の土地を買うのに一年分の子の養育費はかかるという現在の住宅状況が改められ、住宅問題が解決されるならは、私的扶養の問題もまた半ば以上解決されるであろう。

(p. 202-203)

夫婦は相互に協力義務を負っており、家事労働を分担することも、協力の一つの形態であるが、それが夫婦関係にとっての本質的形態でないこともいうまでもない。妻は、家事労働を本務とする家政婦や家事手伝いではないのであり、家事労働を分担するか否かは、妻にとって派生的なことにすぎない。家事労働の点では協力が少ない場合でも、夫婦の本質的つながりにおいて多大の精神的協力をする場合もあるし、その逆な場合もある。家事労働の評価は、妻の協力度の評価にとって第二義的なものでしかないであろう。それゆえ夫婦の協力関係や、その協力による家庭共同生活の維持のための家事労働は、社会的労働と異なって、経済的に評価することはできない性質のものであり、またそのように評価すべき性質のものではないのである(27)(28)

(p. 208)

(27) たとえば妻が病気になって家事労働に従事しない場合、家事労働の評価は問題にならないが、この場合、夫の労働の場合と同じように、ノーワーク・ノーペイであるという原則をもち出して、たとえば離婚や相続の場合における妻の取分を少なくするというわけにゆかないであろう。後述のごとく、妻の生存権保障という観点からは、病気によって離婚された妻の場合こそ、財産分与の必要は一般の場合以上に大きいのである。

(p. 209)

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{1975:BN00398332#Chapter_3} 渡辺 洋三 (1975) 現代家族法理論
ed.= 福島 正夫. 家族 政策と法 1: 総論. 東京大学出版会.
187-215


Note


Tanaka Sigeto / RemCat / ReMCatQuot

Created: 2014-09-21. Updated: 2014-09-21.

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