田中 重人 <http://tsigeto.info/21x>日本学研究会 第7回例会 (2021-12-05)
(東北大学)
まず、本書の目次を確認しておこう。
「はじめに」は、この本の主題と内容についての簡潔なまとめである。 1章は、妊娠・出産と宗教との関係や「スピリチュアリティ」あるいはそれに関連する「コンテンツ」を売買する市場など、この本を読む上での基礎知識が紹介する。 2−4章は、現代日本で流通する代表的なコンテンツとして「子宮系」「胎内記憶」「自然なお産」に関する書籍を取り上げ、それらの内容や注目点、言説の特徴、書き手の属性などを説明する。 5章は、妊娠・出産を「自然」と関わらせた2人の論者、青木やよひと三砂ちづるについて、彼らの思想を対照しながら、フェミニズムおよびスピリチュアル市場との関係を論じている。 6章は、それまでの議論を総括し、結論を述べる。
ページ数を計算すると、1章から5章は29−35ページの範囲に収まっており、似た長さになっている。とはいえ、私の読後感では5章が突出して比重が大きいように感じる。これはおそらく、2−4章が対象書籍の内容や当時の社会状況などを紹介して簡単な腑分けをするものであるのに対して、5章では論理構造を分析して批判を加えるという理論的負荷の高い作業をおこなっているためだろう。
以下では、この本はどのような問いに対してどのような答えを出しているか、ということに重点を置くため、「はじめに」、6章、1章、5章、2−4章という順で見ていく。
この本全体の問いは、「はじめに」の第2段落に出てくる (p. 3)。
これらの問いに対する答えは6章にまとまっているが、問い自体が幅の広いものなので、答えもいくつかに分けて提示されている。
第1の問いに対する答えは、つぎのようなものである。
第2の問いに対しては、つぎのような記述が答えを構成していよう。
「新霊性運動・文化」(New Spirituality Movement and Culture)……1970年代の「宗教ブーム」のなかで、「教団といった組織を形成せず、個人主義を尊重する人びとに支持されてきた宗教的潮流」(p. 22; 島薗進による)。
「スピリチュアリティという言葉を、新霊性運動・文化とほぼ同じ意味で用いることとしたい。」(p. 20)
「支持者同士が世界観をゆるやかに共有し、凝集性を有している」(p. 24)
金銭を介してコンテンツ (書籍、映画、雑誌、関連グッズ) をやりとりする市場。コンテンツの大部分が女性向けという特徴を持つ。(p. 4)
本書では、書籍を分析対象としている。中心は2000年以後だが、1970年代の宗教ブームからつながっている潮流であるため、そこまでさかのぼって歴史的な変遷を描く場合がある (pp. 44−46)。
5章では、「日本社会においては、妊娠・結婚をめぐるスピリチュアリティからフェミニズムが排除されるのはなぜなのだろうか」(p. 147) という問いを立て、ふたりの論客をとりあげている。
1980年代のエコ・フェミニズム (p. 151)
2000年代のフェミニズム・医療批判 (pp. 156−161)
三砂の主張は、今日の「スピリチュアル市場」と親和性が高い。
「アイディア次第でいくらでもコンテンツを生み出すのを可能にした」(p. 179)
「母になることを全面的に肯定するということは、フェミニズムがここ三○年の間で実現できなかった、あるいはしてこなかった出来事でもあった。批判を受けた青木がフェミニズムの表舞台から姿を消して、その後は議論を展開することがなかったのもその理由として挙げられる。そして、そのニーズに応えたのが現代日本社会におけるスピリチュアリティだった」(p. 179)
「子宮」に神聖性や神秘性を見出す発想 (p. 47)。「努力型」「開運型」の2類型があるが、いずれも明るく前向きな内面をもつ「女性らしさ」を称揚する点が共通する。
各種ムック、仁平美香 (ヨガ講師)、井上清子 (子宮セラピスト)、若杉友子 (野草料理研究家) などの著作 (pp. 52−63)。
進純朗 (産婦人科医)『子宮力』(2014年、日本助産師会) の主張 (pp. 63−65):
子宮委員長はる (ブロガー) の著作 (pp. 66−70)。
子供自身が「かみさま」と相談して母親を選んだり、神秘的な体験をしたりした記憶を語る (p. 77)。
1970年代以降の「胎教」ブーム (と医学との結びつき) を前史とする。
池川明 (産婦人科医) の著作:
池川は、自身の主張を積極的に押し出してはいない。社会状況や心性を読み解き、スピリチュアリティに接続させる「マーケッター」としての役割を担っている (p. 110)。
産婦人科医・助産婦による著作が多い。欧米からの翻訳書もある。
吉村正 (産婦人科医)
「自然なお産」とホメオパシー (由井寅子)
日本の「自然なお産」の (海外と比較した) 特徴:
フェミニズムにおいてもスピリチュアリティにおいても医療は批判の対象である。しかしそのときに批判される「医療」とは、自然を管理したり人体を侵襲したりするような側面、つまり技術 (technology) としての側面を指すのではないか。また、なぜ批判されるかといえば、つぎのような理由によるのではないか。
たとえば「卵子の老化」と呼ばれるものは、それ自体はただの知識であり、知ったからといって何かが起きるわけではない。この知識を使って対策をとるとしても、「35歳までに子供を持つ」「基礎体温を毎日測定してタイミングを計る」というようなものであれば、それは個人がコントロールすることであるし、直接的な損害が出るとも考えにくい (変性したたんぱく質を元に戻すために細胞に操作を加えるような技術が使われれば話は別であるが)。
ほかにも、最新の栄養学で「妊婦は○○をたくさんとるとよい」というような研究成果が出てくれば、スピリチュアリティの書き手はそういう知識をとりあげそうに思う。もし○○が人工的な薬品であれば批判の対象になるかもしれないが、通常の食品であれば肯定的に紹介されそうである。
そのように考えると、科学知識を応用する侵襲的な医療 (技術) に対して批判的であることと、医療を支える科学知識自体を尊重することは両立するのではないか。
フェミニズムが切り捨てられている、ということには、3つの側面がある:
この現象を論じるには、スピリチュアリティ市場で売買されるのが細切れの「コンテンツ」であり、まとまった政治的主張を実現しようとする「言論」ではないことをまず念頭に置く必要がある。書き手は市場で売れる商品を開発して売り込むのだから、自分の信念にこだわるのは不利であり、受けることなら何でも書く節操のない書き手のほうが有利である。
その状況で「フェミニズムが切り捨てられている」ということは、おそらくつぎのようなことである:
「フェミニズム」のかわりにほかの政治的主張を入れても同様であろう。読者は自分にとって心地よい内容のコンテンツを選択して購入し、私的世界でのみ利用するのだとすれば、そこに公共的な言論を持ち込む意味はあまりない。市場からのサインを読み取って売れる著作を書く、池川明のような行動が合理的である。また、著作に一貫した主義主張があるようにみえるとしても、それは顧客に向けて演出されているキャラクターだということもありうる。
そのような構造で「言論」が生じることが忌避されているのだとすれば、排除されているのは「政治」だというべきなのではないだろうか。
言論としてではなく消費財としてフェミニズムの受けが悪いとすれば、それは興味深い。しかしそういうことを主張するには、今回のデータ収集と分析の方法は粒度が粗すぎるのでは?
欧米と日本のスピリチュアリティが置かれている状況には、政治的な前提の大きなちがいがあるはずなので、そこを飛ばして比較はできないのではないか。
ひとつには、人工妊娠中絶の法的な位置づけが異なるということがある。日本ではリプロダクティブ・ライツに関する危機感がほとんど共有されていない点で、中絶が非合法であったり、規制の厳しい社会、規制が強化される現実的な可能性がある社会とは、前提がちがいそうである。
もうひとつは、日常的な政治志向が、日本では非常に低いのではないかということ。特に、1980年代以降に政治的無関心が強まり、非政治的な消費志向が社会を覆ったあとの2000年代に発生した現象を分析している、というタイミングの問題が重要なのではないだろうか。
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