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欧文論文での日本語固有名の表記 (工事中)

田中 重人 (東北大学大学院文学研究科)

わたしは、欧文の論文で日本語の固有名詞を引く場合について、かなり異端的な見解を持っています。 ひとことで言ってしまえば「できるかぎり原語つづりがわかるように書くべきだ」ということです。


技術的障害がなければ日本語で

まず、日本語が印刷ないし表示できる環境であれば、当然日本語で書くべきです。 本文が欧文だからといって、固有名詞をアルファベットだけで書こうとするのは馬鹿げています。 外国の印刷所でも日本語フォントがつかえる環境をととのえているところはあるでしょうし、 文献一覧や付録資料についてはカメラレディ原稿をそのまつかうという選択肢もありえますから、 できるだけ原語がつかえるよう努力してみるべきです。 もちろん漢字やかなをパターン認識すらできない読者も多いでしょうから、 そういうひとむけにアルファベットを併記することが必要でしょうし、 本文中ではアルファベット化したものをつかわざるをえないかもしれません。 しかしその場合でも、論文中のどこかにはかならず原語表記を用意しておくべきです。

なぜわたしがこういうことにこだわるかというと、 日本語をアルファベット化する場合、

のどちらかの方法しかないからです。 漢字を直接アルファベットになおす方法はないので、 漢字表記にふくまれている情報は確実におちてしまいます。 アルファベットで固有名を書いたのでは、 「田中和子」と 「田中かず子」の区別も 「仙台市」と 「川内市」の区別もつかないのです (もちろん、所属、誕生年、県名、郵便番号、市町村コードなどをおぎなって区別をつけることはできますが、 それはまたべつのはなしです)。 それにくわえて、そもそもよみかたがわからないとか、 ふたつ以上のよみかたが併存しているとかいうケースもめずらしくありません。

自前でプリントアウトを作成する場合は、はなしはきわめてかんたんです。 いまどき、たいていの日本語ワープロ、 組版ソフトは日本文字とアルファベットがいりまじることを想定してつくられているからです。 わたしがはじめて書いた英語論文 では、 そうやって固有名になるべく原語をつけるようにしました (ソフトはアスキー日本語LaTeX)。 ただしこのときはかならずしもすべての固有名について原語をしるしたわけではなく、 不徹底なところがのこっていました。 日本語の固有名にはかならず原語を付すという原則を徹底させたのは、 2本めに数理社会学会の機関誌『理論と方法』の特集論文として書いた 1999年の論文 です。 この雑誌では日本語版 Microsoft Word を使って版下をつくっていたので、 日本文字とアルファベットがいりまじった Word ファイルをわたしてそのまま使ってもらいました。 このような環境であれば、原語表記することになんの問題もないはずです。


ローマ字化する場合

しかし、技術的な理由でどうしても日本文字がつかえない場合がありえます。 外国で印刷される雑誌に投稿する場合は、残念ながらそうなってしまうケースが多いでしょう。 その場合、原語そのものを表記できないので、どのようにしてアルファベット化するかが大問題になります。 へんなアルファベット表記をしてしまうと、対応する原語がなんであるかがわからなくなってしまうのです。

日本語のアルファベット表記法としては、いわゆるヘボン式、 またはそれをさらに簡略化したパスポート式をつかうのが通例です (というより、多くの論文スタイルガイドには「ヘボン式を使え」と書いてあります)。 しかし、これらの方式は「原語つづりがわかるように」という原則からはいちじるしく逸脱しています。 漢字表記が再現できないのはまあいたしかたないとして、かな表記が再現できるかどうかという点に関しても、 「ヅ」と「ズ」が区別できないとか、「オー」と「オウ」と「オオ」が区別できないなどの問題が生じます。

「パスポート式」はヘボン式をもとにして、「長音を表現しない」という改悪をくわえたものです。 この方式で "Ojima Tomoe" という表記に対応する人名をあげると

のようなことになります。 実際のところ、日本人の名前をアルファベット表記する場合にいちばんつかわれているのは このパスポート式でしょう。 たとえば「佐藤」も「里」も "Sato" となります。

資料が確実に同定できることが要求されるはずの学術論文の世界で、 原語つづりが再現できないような書きかたがこれまでまかりとおってきたのはじつに不思議なことです。 「欧文の論文を読むような人は、どうせ日本語の資料なんかまじめに探しゃしないさ」 という決めつけが背景にあるのではないかとさえおもいます。 これではわざわざ世界をせまくしているようなものです。 せっかく国際的に研究成果を発表しようとしているのに。

ローマ字化の問題にはなしをかぎっていうと、おおもとの問題は、 従来のローマ字化方式が日本文字→アルファベット変換のためのものであって、 アルファベット→日本文字という逆方向の変換のことをかんがえにいれてこなかったところにあります。 いや、そもそもローマ字表記というのは日本語の発音を近似的に示すものとして開発されたものなのであり、 文字表現を変換するという発想すらなかったのかもしれません。 上記の「ズ」と「ヅ」のように同音の文字が区別できない仕様になっているのは、 あきらかにそのせいです。

つまるところ、従来の方式では、 資料の厳密な同定を要求される書きことばの変換方式としては役にたちません。 アルファベット表記から原語のかな表記を確実に再現できるようなローマ字化方式を工夫する必要があるのです。 具体的には、

ということです。 かな→ローマ字変換も一意にさだまるのがのぞましいですが、こちらは必須ではありません。

……というようなことをかんがえていたら、やはり世の中に似たことをかんがえるひとというのはいるもので、 つぎのようなページをみつけました。

もっとも、ここではかならずしも欧文論文の執筆のような場合を想定しているのではなさそうですが。

学術情報センターの Webcat のローマ字検索も、基本的にかな文字ベースのようです (カナ→ローマ字対応表 参照)。 たとえば、パスポート式にしたがって "sato yoshimichi" のように著者名を指定して検索しても、 なにもでてきません。 「さとう よしみち」を1文字ずつ変換して "satou yoshimichi" ならでてきます。

なお、いわゆるヘボン式と日本式の最大 (?) の対立事項である「づ」「ず」、「ぢ」「じ」の区別に関しては、 データベースごとに対応がちがうようです。 調査中です。 まあ、「づ」や「ぢ」の表記をいっさいゆるさないことにしてしまってもいいのかな、という気はしています。 でも、どちらでも無差別にあつかう (あたかもアルファベットの大文字/小文字のちがいのように) というほうがよっぽど便利です。 とにかくわたしたちの日常生活では「づ」も「ぢ」も現役で使われているのですから。


結論 (?)

根本的な解決法は、世界中の印刷所やコンピュータが国際化して、 どこでも日本語の漢字かな混じり文が読めるようになることなんだろうな、とおもいます (もちろん日本語だけでなくあらゆる言語がそうなるべきなのですが)。 それができない現状では、日本語の資料データベースのほうに、 ローマ字表記のゆれを吸収する「あいまい検索」アルゴリズムを普及させるというのが最善の策なのかなあ。

と、ここまでかんがえてきて、原語つづりのリストをべつに用意しておいて、 そこへのリファレンスだけを論文にのせておく、という手があることにおもいいたりました。

Original spells for Japanese proper names referred in this paper are available from the WorldWide Web: URL http://.........
のような注釈をどこかに書いておけばいいわけです。 WWW でおなじURLをずっと使いつづけられるという保証はないので、あくまでも次善の策ではありますが。

日本語で公刊されている本や論文を参照するだけなら、国際標準番号 (ISBN や ISSN) を書くという方法もありえます。 文字コードの問題が生じないので、むしろこっちのほうが本命ではないかという気もします。 問題は、国際標準番号は文献参照の際の必須書誌要素として認識されていない、ということです。 『理論と方法』(数理社会学会の機関誌) に投稿したときは、文献参照のISBNとISSNを削除されてしまいました。 この問題についてはまたそのうち書きます。


文献紹介

そもそもわたしがこういうことを考えるようになった原因は、つぎの本にあります。 岩城宏之氏は国際的に活躍している指揮者ですが、 日本人の作曲家はなんで日本語で指示を書かんのだ、という疑問を提示しています。 「世界中の音楽家たちを相手にするのだから、誰も読めない日本語を印刷するのは無駄なのかもしれないが、 もし外国にぼくと同じような〔作曲家の語学力に関する〕疑問をもつ演奏家がいたとしたら、 彼らが日本の作曲家たちの英、独、仏に疑問をもつことだってあり得るのだ。 その場合、日本語も書いてあれば、音楽家のみならず、世界中のどこにでも日本人がウヨウヨいる。 外国の音楽家たちがそういう日本の人たちに直接尋ねてみて、 より正確に曲の感じをつかむことも可能だと思う。」(p.108)。 この本 (の該当個所) からわたしがうけとったメッセージは、 日本文化にねざした表現を正確につたえるには日本語で書くしかないのだということでした。

上記のコンピュータなどの国際化の話は、文字コードの標準化をめぐる議論につながっていくのですが、 その手の議論にかんしてはつぎの本を参照してください。


東北大学 / 文学部 / 日本語教育学 / 田中重人 / 研究の現場
E-mail tsigeto(AT)nik.sal.tohoku.ac.jp

Created: 1999-12-10. Updated: 2002-04-22. Sorry to be Japanese only (encoded in accordance with MS-Kanji: "Shift JIS").