非科学的知識の広がりと専門家の責任

- 高校副教材「妊娠のしやすさ」グラフをめぐり可視化されたこと
田中 重人 <http://tsigeto.info>
(東北大学大学院文学研究科)
学術の動向. 22(8):18-23 (2017-08-01)

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OSF Project: https://osf.io/pfrvg/
Blog entry: http://d.hatena.ne.jp/remcat/20171007/tanaka

要旨

2015年8月、日本全国の高校に配布された保健科目用副教材『健康な生活を送るために』の問題と、その背後にある専門家による非科学的データ利用の問題について論じる。

目次

  1. 高校保健副教材事件とは
  2. 「妊娠のしやすさ」グラフの来歴と問題点
  3. 妊娠リテラシーの国際比較?: IFDMSのインパクト
  4. 専門家の責任

抜粋

1. 高校保健副教材事件とは

2015年8月、保健科目用副教材『健康な生活を送るために』(2015年度版) が全国の高校に配布された。その第19節「安心して子供を産み育てられる社会に向けて」は、「結婚のタイミングや子供をいつ頃何人欲しいかなど」を考慮したライフプランの重要性を説き (図1)、子供を「生きがい・喜び・希望」とする回答割合が高いという調査結果 (後に誤りを指摘されて差し替え) や、「30代夫婦の6組に1組が不妊に関する検査や治療を受けたことがあるとの調査結果」(出典なし) などを載せていた。そして、その直後の第20節「健やかな妊娠・出産のために」には、女性の妊娠のしやすさは22歳でのピークのあと急激に低下していくとするグラフ (図2) があった。

……

2. 「妊娠のしやすさ」グラフの来歴と問題点

この「妊娠のしやすさ」グラフのもとになったのは、Bendel and Hua (1978) の研究である。これは、結婚している女性から1年間に平均何件の出産があるか (婚姻内出生率) のデータを基に、年齢別の流産率・死産率・不妊率などを外挿した妊娠・出生過程の確率モデルを適用して、1か月あたりの妊娠の確率 (fecundability) を推定したものだ。25歳以上の部分は北米ハテライト (注2) の1950-60年代の調査 (Sheps 1965) による (注3)。Sheps (1965) のデータは、新婚夫婦に限れば、20代から30代前半まで出生率はほとんど変わらないというものだった (図3)。

しかし Bendel and Hua (1978) はデータ処理がおかしいので、生物学的な意味での「妊孕力」(fecundity) を表した研究成果とはいえない。というのは、20代前半までに結婚した女性だけを取り出して使っているからである。……彼らは早婚の女性のデータ (図3では実線の2本) だけで推定をおこなったため、結婚からの時間経過による出生率低下を反映して、30代前半までに妊娠確率が大きく下がる結果となっている。一般に、結婚生活が長引くにつれて夫婦の出生率は低下していくものだが、それは性交頻度の減少などの要因でそうなるのであって、加齢によって妊孕力が低下していくためではない。

その後、Wood (1989) がこのデータの一部を改変して22歳がピークとなるグラフを作製。さらにそれを不正確に写したグラフを O'Connor et al. (1998) が掲載した。副教材に載った図2は、このグラフから7つの点を取り出し、うち20-30代の3点を左に動かして、「妊娠のしやすさ」が直線的に低下するようにみせかけたものだった (Tanaka forthcoming)。

後にあきらかになった情報 (西山・柘植編 2017: 53-57) を総合すると、図2のグラフを作ったのは、政府に助言する立場にあった著名な産婦人科医師である。……

図2は、専門家の団体による組織的な政治活動にも顔を出していた。2015年3月2日に日本産科婦人科学会、日本産婦人科医会、日本生殖医学会、日本母性衛生学会、日本周産期・新生児医学会、日本婦人科腫瘍学会、日本女性医学学会、日本思春期学会、日本家族計画協会の9団体が内閣府に提出した「学校教育における健康教育の改善に関する要望書」の付属資料には、図2に酷似したグラフがある (西山・柘植編 2017: 58)。これは、「妊娠・出産の適齢期やそれを踏まえたライフプラン設計」について中学・高校で教えるべきとする要望書であり、「年齢が高齢化すれば、女性の妊娠する能力は低下する」ことの根拠として図2と同様のグラフを示している。

……

…… Bendel and Hua (1978) の書誌情報さえわかれば、実際に論文を読むまでもなく、ダメな研究だとの見当をつけることも可能だった。この論文を引用する文献は少なく (Web of Sciences で13件)、その多くは批判対象として言及するか、研究史概観の際に一言ふれているだけだからだ。データや計算方法を検討したうえで肯定的に評価している文献は1本もない (Tanaka 2017)。被引用状況をみれば、一般向け教材で無批判に紹介していい研究でないことは明白なのである。

3. 妊娠リテラシーの国際比較?: IFDMSのインパクト

この副教材ができた理由を追究していくと、2015年3月20日に閣議決定された「少子化社会対策大綱」にたどりつく。この大綱は「妊娠や出産などに関する医学的・科学的に正しい知識」を普及させるという課題を掲げている。学校教育については「正しい知識を教材に盛り込む」としており、これが「妊娠のしやすさ」の項目を副教材に入れる根拠となった。

この大綱の審議過程で、日本人には妊娠や出産に関する正しい知識がない (だから教えるべき) という根拠として使われてきたのが、英カーディフ大学の研究グループによる国際調査 International Fertility Decision-Making Study (IFDMS) である。この調査の質問文には、日本語としておかしい表現が多数ある(西山・柘植編 2017: 146-154)。特に、妊娠・出産に関する正しい知識の割合を測ったとされる尺度については、全13項目のうち10項目以上に翻訳上の問題がある。また、誤答だけでなく「分らない」という回答も0点にされること、日本語版と英語版では項目順序がちがうこと、国によって正解の異なる項目があることなど、翻訳以前の問題もある。到底まともな調査とは呼べないものだが、それが科学的な根拠であるかのようにあつかわれてきたのである。

この調査の結果が論文として出版されたのは2013年のことだ (Bunting et al. 2013)。しかし、IFDMSを使った政治活動とメディア露出が始まったのは、その前である。…… IFDMSをめぐる問題は、「役に立つ」研究であることをアピールしようとした研究者の拙速な行動が引き起こしたという側面もありそうだ。その後、日本産婦人科医会の記者懇談会や国会の質問主意書などでこの調査結果が引用され (Tanaka forthcoming)、日本では「妊娠リテラシーは世界でも最低レベル」だという認識ができていくことになる。前述の9団体による要望書も、「妊娠・出産の知識レベルが、日本は世界に比べ低い水準にあるという研究結果」としてIFDMSの結果を引用していた。

……

4. 専門家の責任

副教材問題が持ち上がってから1年半後の2017年3月、文部科学省は、当該副教材の2016年度改訂版を公表した。そこでは、図1や図2をふくめ、2015年度版で問題になった記述の多くがなくなっていた (西山・柘植 2017: 15)。市井からの疑問の声が政府に届き、この結果になったのだとすれば、それは評価すべき成果といえよう。

一方で、専門家の側からは、この事件についての説明は、これまでのところおこなわれていない。……

専門家の団体が結束して「妊娠や出産などに関する医学的・科学的に正しい知識」を教えるべきと主張するのであるから、まず文献を網羅的にレビューし、どんな知識がどんな根拠をもって正しいといえるのか、あらゆる疑問に答えられる万全の態勢を整えるのが定石である。ところが今回の騒動では、そのような準備はなかった。専門家がそれまでに一般向け書籍などで使ってきた訴求力の高いグラフを、根拠の確認なく再利用しただけのようにみえる。……

図1: 女性についてのみ掲載されていた「ライフプラン」例 〔文部科学省『健康な生活を送るために』(2015年度版) p. 38〕 <http://web.archive.org/web/20150906021930/http://www.mext.go.jp:80/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/08/17/1360938_09.pdf>
図2: 女性の妊娠のしやすさの年齢による変化 (副教材掲載時のもの) 〔文部科学省『健康な生活を送るために』(2015年度版) p. 40〕 <http://web.archive.org/web/20150906021930/http://www.mext.go.jp:80/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/08/17/1360938_09.pdf>
図3: ハテライト女性の年齢別婚姻内出生率 〔Sheps (1965, Table 2) に基づき、3年間移動平均を筆者が計算したもの (Tanaka 2017: Figure 2a)。〕 <http://tsigeto.info/17a>

文献

注・付記

『健康な生活を送るために』ウェブ版 http://www.mext.go.jp/a_menu/kenko/hoken/08111805.htm は改訂のたび旧版が削除される。過去のファイルをみるには http://archive.org などで探すとよい。

この特集のもととなった日本学術会議公開シンポジウム 「少子社会対策と医療・ジェンダー:「卵子の老化」が問題になる社会を考える」 (2016年6月18日 東京) での報告 (http://hdl.handle.net/10097/64282) ではほかに3つのグラフをとりあげたが、それらについては Tanaka (forthcoming) を参照されたい。また、この記事の内容は、 「高校保健・副教材の使用中止・回収を求める会」 での活動 (西山・柘植編 2017) に多くを負っている。関連する報告の折に情報と意見を寄せてくださった方々に感謝申し上げる。


バージョン間の異同

履歴

カラー

J-Stage版 のPDFは、図がカラーです。ほかのバージョンでは図はモノクロに変換されています。

英文表題の訂正

『学術の動向』22(8):6 の英文表題一覧では、

Professional Responsibility for Spreading Unscientific Knowledge: The case of the "Ease of Conception" Graph in Supplementary a High School Textbook

となっており、冠詞 a が変な位置に入っていました。 国立国会図書館 (NDL) 雑誌記事索引国立情報学研究所CiNii の情報は、このまちがった英文表題のままになっています。この点の訂正は、次の9月号 (22巻9号) の5頁に掲載されました。 J-Stage オンライン版 では訂正された表題になっています。

校了後の変更

『学術の動向』22(8):20 では、ふたつめの段落がつぎのようになっています。

後にあきらかになった事実を総合すると、図2のグラフを作ったのは、政府に助言する立場にあった著名な産婦人科医師である。これは2015年10月2日有村治子内閣府特命担当大臣 (当時) 記者会見、翌年5月25日国会 (参議院行政監視委員会) 政府参考人答弁で確認されており、本人も認めている (西山・柘植編 2017: 53-57)。図2に酷似したグラフは2013年には使われていた。吉村 (2013) は「22歳時の妊孕力を1.0とすると、30歳では0.6を切り、40歳では0.3前後となる」と、20代のうちから妊孕力が大きく下がるという根拠としてこのグラフを示している。

この部分は、著者原稿 (2017-06-30) ではつぎのようになっていたものです。

後にあきらかになった情報 (西山・柘植編 2017: 53-57) を総合すると、図2のグラフを作ったのは、吉村泰典・慶應義塾大学名誉教授 (日本産科婦人科学会元理事長、日本生殖医学会元理事長、内閣官房参与) である。吉村は、自身が代表をつとめる一般社団法人「吉村やすのり生命の環境研究所」サイトで、図2に酷似したグラフを使ってきた。たとえば「22歳時の妊孕力を1.0とすると、30歳では0.6を切り、40歳では0.3前後となる」(吉村 2013) といった具合に、20代のうちから妊孕力が大きく下がるという持論の根拠としてこのグラフを示している。

この状態で提出し、そのままで 2017-07-04 に校正終了しました。

その後になって『学術の動向』編集委員長から修正依頼があり、特集執筆者で協議した結果、現在のような文面になりました (2017-07-24)。この文面では、「吉村泰典」の氏名や肩書がなくなり、「政府に助言する立場にあった著名な産婦人科医師」というぼやかした表現になっています。一方で、 大臣記者会見国会質問 の情報を加えました。また、 改竄グラフを使用したブログ記事 (吉村 2013) への文献参照はそのまま残しました。

著者原稿版PDF は、原稿提出時点のファイルに基づいていますので、この変更が加えられる前の文章になっています。また、 英語版 も、この著者原稿版に基づいています。


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